変身
オイシン来店。カウンターにて何か本を読んでゐたが、フッと顔をあげて
「いやー、実は今、カフカの『変身』を読んでゐるんですよ」
ええ? ああ、カフカね、はい、カフカ。まア、カフカはいいからね。私もカフカは大好きだよ、特に『審判』、あれは最高。
「えー、『異邦人』って、カフカでしたっけ?」
いや、あれはカミュ。カフカは、『審判』に『城』『アメリカ』、その他に珠玉の中短編が何編か。で、長編である『審判』『城』『アメリカ』は全て未完で、未発表。さらに、カフカは死後にこれらの原稿を焼き捨てるやうに親友に頼んだんだけれど、その親友が裏切つて発表してしまった。
「ひどいやつですねー」
まあ、ね。でもそのおかげでこれらの作品が読める訳だし。確かこの親友の行為は、史上最も意味のある背信行為、とかなんとか言はれてゐるんぢやなかつたかな。カフカの影響は絶大だからね。
「さうなんですかー。どういふ影響があつたんですか?」
ううん、カフカに関しては膨大な研究があるからなア…ひとことで言ふのは難しい。ええと、表面的なことで言へば、「不安」「孤独」「独身者」などといふ主題を 20 世紀文学にもたらした。それから、やはりリアリズムの質が変はつたんぢやないかなア。
「なるほど、確かに、人々の心理描写とか、凄く細かいですよねえ」
いや、さういふ細かい心理描写は 19 世紀文学の十八番だつた訳で、さういふ心理主義を断ち切つたのがカフカの偉大なところだと思ふんだけど。
「はあ…」
ま、オイシン、そんな事は考へなくていいから、とにかく読んだら? まづ、作品を読むのが大切だよ。なんといつても、カフカは笑へる! 面白い。
「さうですね」
と言つて、オイシンはふたたび読書に戻つた。オパールのカウンターでカフカを読むオイシン。これだけで充分に面白い。さすがにカフカは偉大である。などと考へてゐたら、オイシンがパタッと本を閉ぢて、
「読み終はりました。いやー、面白いですねー」
と言つて、帰つていつた。不気味である。
文学の力を感じた。
小川顕太郎 Original: 2003;