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 Diary 2002・5月21日(TUE.)

和歌とか俳句とか

 まだまだ同じ様なネタで突っ走る。今日は詩の中でも、和歌や俳句について書く。私が和歌や俳句に興味を持つようになったのは、あれはいつ頃だったろうか、原将人監督『百代の過客』を観たのがきっかけだった。『百代の過客』は、原将人が自分の息子と一緒に、松尾芭蕉が『奥の細道』で訪れたのと同じ場所を訪れるという旅を敢行した様子を撮った、私的ロードムービーだ。

 その映画の中で、原将人は息子に、俳句というのは映画と一緒だ、といった内容のことを告げる。私はその時は、ふーん、そんなもんかね、と思って観ていたのだが、それからしばらく経って、なにかの機会に、柿本人麻呂の「東の野にかぎろひの立つみえて かえり見すれば月傾きぬ」という有名な和歌を読んだときに、もちろんこの和歌は小さい頃からよく知っているはずなのに、その時にはじめて、頭の中に圧倒的な映像が浮かび、ほとんど驚愕したのであった。その映像は、まるで映画のようにグルッとパンして傾く月をとらえる、というものだったので、その時に、ああ、原将人の言っていたのはこの事だったのか! と得心したのだ。

 ところで、『百代の過客』によって俳句・和歌への興味をかき立てられたとはいえ、まだ興味を持った、という程度であった。それを本格化させたのは、やはり昨年読んだ大西巨人著『神聖喜劇』だろう。この本の中で、主人公である東堂太郎は、ことあるごとに和歌や俳句、漢詩、俗謡から詩の一節、格言、名言などを思い浮かべるのだが、これがかっこいい! 人間というのは、自分がかっこいいと憧れる人のマネをするものだ。それ以来、私はいろんな和歌や俳句をなるべく暗唱しようと務めるようになった。短歌や俳句なら、短いから覚えやすいもんね。

 なにかを暗記する、というのは脳の訓練にもなるし、和歌や俳句というのは日本文化の精髄でもあるので、これを覚えない訳にはいかない。そうやって自分の属する文化の精髄を身体に叩き込むこと、叩き込まれてあることが、ソウルフルということなのだ。

 ここで金子兜太の俳句を一句

女子学生相寄り咆哮する晩夏

 うーん、ソウルフル!

小川顕太郎 Original:2002-May-23;