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 Diary 2002・6月7日(FRI.)

アフガニスタンの仏像は

 先日ババさんから借りた本『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』モフセン・マフマルバフ著(現代企画室)を読む。これはイランで最も人気があり評価が高いと言われる映画監督マフマルバフの、アフガニスタンに関するレポートだ。また、アフガニスタンを題材にした自身の話題作『カンダハール』についての、格好のサブテキストともなっている。

 この本を読んでまず驚かされるのは、マフマルバフの、西欧近代的な価値観を良しとする姿勢だ。ブルカや部族的な諸制度を、アフガニスタン固有の民族文化として肯定するのではなく、西欧近代から遅れた野蛮なものとして、断罪している。この姿勢は、マフマルバフ自身が、政教一致という反近代的な制度をとりながらも、西欧近代的なものをうまく取り入れてやっているイランという国の国民である、という所からくるものだろう。また、反近代革命であったイスラム革命に対する失望も、この姿勢に大きく影響していると思われる。

 マフマルバフは、若い頃にイスラム革命に命をかけ、捕まって投獄されたが、革命成就後に釈放された。しかし、革命後の世界にも納得がいかず、政治活動から転じて文筆業へ、そして西欧近代を象徴する文化である映画の作製へと、向かった。これらの経歴が、この本にみられるような、マフマルバフの姿勢を作ったと、とりあえずは考える事ができるだろう。隣国アフガニスタンの悲惨さの原因には、アフガニスタンの諸部族が自らの民族固有文化に固執しすぎる事があげられる、もっと西欧近代の良い部分をとりいれて、目の前の悲惨さから抜け出さなければならない、といった姿勢だ。しかし、これでは政治的にあまりにも幼稚な姿勢である。現代の世界では、ある意味で西欧近代の極限形態であるグローバリズムが席巻し、それがあらゆる混乱と不幸を産み出している。と、みることもできる。そして、グローバリズムを推進しているアメリカは別にして、世界中の各国は、いかにそれに抗していくか、という事が緊急の課題であり、民族固有文化の見直しが、様々な角度から行われているのだ。そういった時に、このマフマルバフの姿勢は、あまりにもナイーブのように思われる。が、この本から受ける印象は、そういったナイーブさではない。ある種、野蛮な力が感じられるのだ。それは、なぜなのだろうか?

 それはたぶん、この本には芸術の力が満ちているからだろう。ゴダールが言ったような、文化の敵としての芸術、の力である。文化とは、愚かな人間を統御する枠のようなものだ。文化という枠がなければ、人間はまともに生きていけない。しかし、枠であるからには、時としてそれが身体に合わなくなり、かえって苦しみの素になることがある。それを破壊するのが芸術だ。そういった意味での芸術の力が、この本にはあるのだ。

 バーミヤンの仏像破壊という、たぶんに政治的、いささか宗教的な行為を、「破壊されたのではない、恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」と断言する事は、民族固有文化であろうと、西欧近代文化であろうと、あらゆる文化に対する破壊宣告である。そこには、ただ崩れ落ちた仏像だけがある。そして、それこそが、マフマルバフの映画『カンダハール』だ。私があの映画から受けた印象は、崩れ落ちた仏像を、ただ茫然と眺めているというものだった。この本を読み終わった今となっては。

 この本は、それだけで読むと、愚直なヒューマニズムの罠に捕らわれやすい。そうならないためにも、映画『カンダハール』と併せて読むことを強く勧める。そうすれば、我々は多くの事を、そこから学ぶことが出来るだろう。

小川顕太郎 Original:2002-Jun-8;