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 Diary 2000・5月20日(SAT.)

滅びゆく思考力

 人間の思考力というものは、幼児期の環境に多大な影響を受けるらしい。言葉も喋れず、何やら泣き騒ぐだけで生きていくための基本的な判断も出来ない状態から、曲がりなりにも生きていける状態になるまでの期間、脳の神経細胞の樹状突起が伸び、シナプス連絡網が拡がってグリア細胞が増え、髄鞘化が急激に進む期間、の周りの環境が大切でない事はありえないだろう。それでは、一体どのような環境が望ましいのであろうか。

 最近このような事が気になって色々調べているのだが、どうやら「対話」というのが重要なポイントらしい、という結論に落ち着きつつある。自らの側にいて世話を焼いてくれる大人との絶え間ない対話。これが子供の思考力を造るにあたって大きな比率を占めるらしいのだ。この大人は別に親じゃなくても構わないのだが、普通は親が果たす役割だろう。

 子供が「考える」という能力を獲得するには、とにかく能動的に話す事が必要らしい。子供が発する意味不明の言葉に根気よく耳を傾け、それに答えてあげること。ただ単に聞くだけではなく、子供の言わんとしている事を汲み取り、それに質問を投げかけ、その答えに対して自分の考えを辛抱強く言い聞かせる。そういう行為の積み重ねが、子供に能動的に話す事を覚えさせ、思考力を養う事になるのだ。

 だからこういった環境がないと、子供は思考力を身につける事が出来なくなる。例えば、いわゆる「愛情」の不足で子供の言う事に真剣に耳を傾けない大人しか周りにいないと、事態は悲惨だ。

 そこで問題になってくるのがテレビ、及びゲームだろう。テレビやゲーム自体が、脳の活動を不活発化させ、人間を馬鹿にする、といった研究も多々あるが、ここではそれはいったん置く。何より問題なのは、テレビを見たりゲームをする事によって、対話の時間が奪われる事だ。最近の親の中には、テレビを見せたりゲームをさせると子供がおとなしくしているという理由から、積極的にテレビを見せたりゲームをさせたりする人もいるようだが、刺激を一方的に子供の脳に与えるだけでは、脳は発達しないのだ。どんなに面倒でも、子供と真摯に対話し続ける事が大切なのだ。

 といった所で最近の 17 歳の犯罪だが、私が驚くのはやはり彼等のあまりの思考力・想像力のなさだ。彼等が人を殺したから言っているのではない。そうではなくて「殺人は割に合わない」という単純な計算もできないからだ。無論、昔から殺人はいくらでも行われてきた。その犯人の中には「殺人は割に合わない」という事が分からなかった人もいただろうし(馬鹿タイプ)、そう思わなかった人もいただろうし(勘違いタイプ)、実際そうでなかった人もいただろう。最後の「実際そうでなかった人」の中から、軍人や殺し屋などを除くと、そこには人生の単純な真実を覆すドラマを抱えた人が多いだろう。「殺人」が文学のテーマになるゆえんである。

 私は事件についてそこまで詳しくないので、はっきり断言できないが、彼等に「人生の単純な真実を覆すドラマ」があったとは思えない。あるのは「自己顕示欲」だろう。人間というものは様々な欲望を抱えて生きるもので、みんなその欲望を実現しようと努力したり、折り合いをつけたりしながら一生を終えていく。「自己顕示欲」とてそういった欲望のひとつに過ぎず、彼等は単に失敗した、ということだ。

 また殺人というのは、他人の生命を奪ってしまう事だから、他人に与える迷惑のうち最大のもののひとつである。「他人に迷惑をかける」という事が分からない、というのも思考力・想像力のなさを表すだろう。他人と濃密な関係を築けないネット空間というものも、想像力を養う事を妨げているもののひとつかもしれない。

 とまあ、ここまでくると、「17 歳の犯罪」は思考力・想像力のなさ故におきる、思考力・想像力がないのは親のせいテレビのせいゲームのせい、インターネットのせい、という事になるだろう。そしてそれはその通りなのだが、事態というのはいつだってずらす事が可能だ。

 例えばこの「自己顕示欲」というのを、時代の病と捉えて事態を眺めると、少しばかり違った相貌がみえてくるだろう。「退屈」ゆえに殺人を繰り返した乱歩の小説の人物達に、近代のアポリアが見てとれるように。

 今日は大雨。疲れたのでこの辺で。

小川顕太郎 Original:2000-May-22;