大島渚監督作品『御法度』を見て論評せよ!
この課の目標
- 話題の日本映画を見て教養を身につける。
- 自分の意見を述べる習慣を身につける。
- 他人の意見を理解する習慣を身につける。
以下、オパール道場弟子おいしんがまとめた「対談」。
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「御法度」対談
- 出席者
-
- おいしん
- 対談の進行・まとめ。自称 WEB デザイナー。G 県出身、京都在住。男。若い。→Synchronize>>
- タケチ
- フリーのデザイナー。大阪在住。29 歳。男。→デザインカフェ
- アキラ
- エンジニアかつ年下キラーの異名を取るフラッシュダンサー。たまたま通りがかったために参加するハメに。女性。南区在住。→*happy birthday club*
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- おいしん
- さあさあそれでは始めましょうか、しかしこのメンバーで大丈夫なんかいな?
- タケチ
- それは僕らの台詞だよ。ねえアキラさん。
- アキラ
- そうよー、だいたいおいしん態度も声もデカすぎ!(注:おいしんさんの発言の文字がデカいのは、声の大きさを表しております。)
- おいしん
- はいはい、すんませんなあ。まあぼくの性格と声の話は置いておいて始めましょう。
- タケチ
- 僕はいたってマトモだから。
- アキラ
- ?
- おいしん
- ?
- タケチ
- 僕はあんまり新撰組って好きじゃないんだなあ。そういえば宇宙戦艦ヤマトもたいがいな話なんだよ。
- アキラ
- ???
- おいしん
- ???
(タケチさんの宇宙戦艦ヤマト話、長いのでカット)
- おいしん
- 僕とタケチさんははおもしろかったってことで一致してるんですけど、アキラさんはどうでした?
- アキラ
- おもしろかったですよー。1999 年にみた映画のベスト 3 に入る作品でした。
- おいしん
- おお、それはそれは。僕としてもベスト 5 に入るくらいよかったです。
- タケチ
- 大島映画の中でも一番よかったね、あれは誰が見ても楽しめるんじゃないかな。そうそう、衣装の襟元についているマークがあるでしょ、あれの数が新撰組での階級を表しているんですよ。ほらほら。
- アキラ
- はぁ…。
- おいしん
- はあ…。いやー、それにしてもトミーズ雅はよかった。とくに惣三郎にせまられて引く姿なんかはさすがお笑い、いい顔してましたよ。
- アキラ
- でしょー。
- おいしん
- 僕としては雅とざこばのからみなんかがコテコテな感じでおもしろかったですねえ。やっぱりお笑いやってるだけにああいう役どころにはピッタリはまってました。
- タケチ
- 結局惣三郎の目的はなんだったんだろうね。
- アキラ
- 私は惣三郎は最初単純に新撰組に憧れて入隊したと思いますけど。そこでたまたま他のオトコが言い寄ってくるもんだから、これはイケるって思って出世欲をもっちゃったって感じかな。それでその利用しようとしている男との関係がこじれて殺しをやってしまったと。
- おいしん
- え、そうなんですか? それだったらなんだかおもしろくない話だなあ。
- アキラ
- 昔同じような事があったんですよ、私が行ってた学校は女の子が学校に 20 人くらいしかいない学校だったので。
- おいしん
- それってアキラさんはもてまくったって話でっか?
- アキラ
- ちがーう! ほとんどオトコばっかりだったからホモカップルもいたって事!
- タケチ
- な〜るほど。
- おいしん
- な〜るほど。それで血を見るような事に発展したりしたってことですか?
- アキラ
- いやいや、そんなことはなかったですよ、私はありましたけど。
- タケチ
- おおーー!!(ぱちぱちぱち)
- おいしん
- おおーー!!(ぱちぱちぱち)
(アキラさんの恋愛やくざ話中、残念ながら公開できません)
- おいしん
- いやぁアキラさんやっぱすごいわ〜。 で、本題に戻りますけど、僕は惣三郎は「人を殺す」という行為をしたくてそれを合理的に行うためにすべての事を行っていたと思うんですよ、だからトモロヲと寝たりしてたんじゃないですか? じゃなかったらトモロヲと寝る気にはならないでしょ。
- タケチ
- 確かにトモロヲはへぼかったなあ
- アキラ
- どうみても田代の方が男前だし。
- おいしん
- で、トモロヲと寝た事になれば、田代が嫉妬して彼を殺すって路線もありえるわけでしょ。トモロヲが田代を殺すって話をするのを聞いたのは惣三郎だけだから他の人にはばれないわけだし。恋愛のモツレだとしたら田代のふりして山崎を狙う必要なんてないでしょ。あれも田代を殺す口実が欲しかったってことになりません? 彼の気持ちは前半の「人が切れるから新撰組に入った」って発言に集約されていたんだと思います。
- タケチ
- ふむふむ。
- アキラ
- ふむふむ。
- おいしん
- それに出世を狙ってたのなら、藤原組長とでも寝たほうがいいし。けど絵的には藤原組長と惣三郎のカラミってのは見てみたいなあ〜。
- タケチ
- そうそう、トモロヲと惣三郎の濡れ場はすごかったね。
- おいしん
- そうですか? ぼく的には惣三郎がマグロだったのがちょっと。 もっと激しいリアクションが欲しかったなあ。
- アキラ
- ……。
- タケチ
- ……。
- おいしん
- で、惣三郎に踊らされる人々の話って感じで見てたのでとてもおもしろかったと。
- アキラ
- 私はやっぱり惣三郎は出世を狙ったんだと思うんですけどねえ。 で、最後に田代に「許してくれ」って言ったのを沖田は敏感に聞き取って、全てを悟ったわけですね。もともと近藤や土方に気に入られているのをよく思ってなかった沖田はそれを聞いて殺しに行ったと。
- おいしん
- え、最後は惣三郎斬られたんですか?
- アキラ
- 忘れ物をしたって沖田が戻った後「ぎゃー」って声してたでしょーに。
- おいしん
- あ、そうだったのか。
- アキラ
- だから店主にアホって言われるのよ。
- おいしん
- え!? そんな事いわれてたのか。がーん。じゃあタケチさんはどう思いますか?
- タケチ
- 僕はアキラさんに賛成だなあ、なんかすごく納得した。おいしんの言ってる要素もちょっとはあると思うけど。
- おいしん
- 「ちょっと」ですかー。僕がこんだけ論理だった説明してるのに〜。こうなったら BABA さんに聞くしかないな、BABA さん、BABA さーん!
- BABA
- なんや、おいしんかいな。あいかわらずうっさいねん。
- おいしん
- こりゃまた今日も冷たいですねえ。 あのですね、これこれこういうことで、アキラさんとぼくは惣三郎の考えについての見解が違がうんですけど BABA さんはどっちやと思わはります?
- BABA
- どっちでもええんちゃう、そんなん。
- おいしん
- うが〜〜!
- タケチ
- さて、おいしんが壊れたところで、この対談も終了としますか。
- アキラ
- そうですね、にしても結局結論出ませんでしたねえ。
- タケチ
- まあ書くのはおいしんだからいいんじゃないですか。
- アキラ
- それはいえてますねー、それじゃあまた次の対談もがんばりましょう。
- 一 同
- エイエイオー!
小形剣之信道場主の講評
それでは早速講評にはいる。ううううううううううん。酷いものが来るとは思っていたが、ここまで酷いとは…。まあ、最初でもあり、対談というイレギュラーな形式である事も勘案して、今回は特別に扱うが、次回からこんな内容では書き直しを命じるからそのつもりで。
この対談、まあ、3 人で喋ってはいるがタケチは居ても居なくても一緒だから「対談」というが、要はアキラさんとオイシンの「惣三郎の動機」に関する意見の食い違いを主題にしたかったのだろう。で、どちらが正しいか、と。馬場師範代も言っているように、そんなものどっちでもよいのだが、敢えて言うなら、二人とも間違っている。まずはアキラさんの「惣三郎は出世したかった」説だが、これはオイシンも正しく指摘しているように、田代と寝ようが湯沢と寝ようが出世には何の関係もないので、没。で、オイシンの「惣三郎は人が斬りたかった」説だが、こちらは一見正しそうにみえるし、実際そうとる人も多いだろうが、その程度の理解では当道場は失格だ。
よくスクリーンを観ろ、オイシン。惣三郎はそんな血に飢えた殺人マシーンとして描かれていたか? 答えは、否。むしろ惣三郎は徹底的に受動的な人間、主体的な意志も動機も希薄な人間として描かれていたはずだ。これはある意味当然である。なぜなら稚児趣味とは多分に人形愛的なものだからだ。だから惣三郎が濡れ場において「マグロ」なのは当然なのだ。人形なのだから。人形愛とは自己愛の変形である。故に愛する側は、自らを惣三郎に投影し、それを愛する。惣三郎は主体的な意志も動機も持たない虚ろな入れ物として、自分を愛するもの達を写す。惣三郎に惹かれたもの達は、田代にしろ湯沢にしろ近藤にしろ土方にしろ沖田にしろ、自らの「魔」を惣三郎の中に見出し、動揺する。これは新撰組という組織の危機である。だからこそ、惣三郎は斬られてしまったのだ。故に「惣三郎の動機」を詮索するのは何も分かっていない事になる。そんな事はどうでもいいのだ。惣三郎は「X」なのだから。
オイシンはこういった事を理解する概念枠がないようだな。似たような事例があったんだが分かるか。それはオイシンの「テオレマ」レポートだ。「テオレマ」では、あるブルジョワ家庭の全員がテレンス・スタンプと関係を持つことによって、その家庭が崩壊していくのだが、オイシンは、「テレンス・スタンプは家庭を崩壊させるくせに、その家庭の全員を愛しているように見えるぞ、テレンス・スタンプは何がしたかったんや、訳わからん!」と言っていたわけだ。しかしこれも「御法度」と同じ構造とみなせるのだ。つまりテレンス・スタンプは「X」なのだ。皆はテレンス・スタンプの中に自らの「魔」を見出し、発狂していくのだ。各自の抱える「魔」の違いが、発狂の仕方の違いとなる。思い出してごらん。テレンス・スタンプは徹底的に受動的で、主体的な意志も動機も感じられなかっただろう。みんなが勝手に、そこにただいるだけのテレンス・スタンプをみて動揺し、性交へと誘ったのだ。テレンス・スタンプはただそれに応えただけ。こういった存在は、組織を、日常を、個人を、つまりありとあらゆる偽善的なものを、崩壊させるのだ。
さてそこで少し考えてみよう。オイシンは惣三郎に、どんな自分の「魔」をみたのか。惣三郎の動機を「出世欲」と捉えたアキラさんは、もしかしたら「出世欲」が強いのかもしれない。あるいは、恋愛を出世などのなんらかの手段として使う欲望が強いとか。
じゃあ、オイシンは? 人を殺したい願望が密かに秘められている、なんてね。まあ、惣三郎の「人を切れるからでしょうか」という何も考えずに吐いたような台詞に引きずられているだけだろうから、ただ単に騙されやすいだけだろうが。次回はもうちょっとましなものを書くように。以上。
(小形剣之信)
浪人:おチェケ丸殿の講評
先日「エンド・オブ・デイズ」のことを話す機会があって、その人は非常に面白かったと言う。「シュワちゃんがラストに死ぬ(※ 1)のが意表を突いていて良かった」らしい。「ターミネーター」でも死んでた気がするんやけど、そんなことは置いといて、まあ色んな風に映画を観る人がいるもんだなあと今更ながら思った次第。おそらく僕がガンガン意表を突かれた「シックス・センス」なんか何とも思わん人もいるんでしょうね。
オイシンには直接話したから別に書かんでもいいような気もするけど、一応「浪人」だから書かねばね。こんなこと「当然」だし「今更…」と思う人も多いかもしれないけど、その辺りはご容赦を。
ああ、対談は「惣三郎はどんな人であるのか?」ということに終始してるんやなあ。以前オイシンは書いてたけど、登場人物(主人公)に如何に感情移入するかということが専らの関心事な訳なんやね。映画内の世界には色々な登場人物がいて各々が個別の立派な脳味噌を持って行動していると想定してるんや。でもでも、(当然オイシンも分かってると思うけど)映画には「監督」が小説には「書き手」が存在するんやなあ。だからそこに展開している世界はあくまでも絶対的存在である作家の脳内で創作されたものであるのだ。つまり絶対者である作家がそう望めば、登場人物の心の動きや行動に一貫性を持たせなかったり、「狂言まわし」として適当に利用するだけの場合も十分有りうる訳で、それを主人公然として物語に存在させちゃうこともオーケーなんです(※ 2)。よね。こういうパターンの場合、「主人公に感情移入メソッド」だけに頼っちゃうと、「わからん」「つまらん」となっちゃうと思うけど、そんなことない?
たとえば「主人公に家族への悪意は見られない、それどころか彼は家族を愛しているように見える。彼はパゾリーニの権化の様な存在だと思っていたから、そのあたりは疑問が残る」(「テオレマ」レビュー)というお話になるんやね。「パゾリーニの上流階級への憎悪というか嫌悪」イコール「主人公の家族への悪意」という図式になってしまうんやなあ、オイシンの場合は。けど、それがオイシンの純粋さとも言えるなあ。んんん。
作家は「主人公(に見える人)」のみに自己を投影しているんぢゃなくて、すべての登場人物に何らかの形で自己を投影しているんではないんでしょうか?
映画を如何様に観るもオーケー、語るもオーケー。物語の面白みを語ったり、登場人物の魅力を語るもオーケー。でもそれだけでは作品の本当の楽しさに到達できない場合も多いと思うよ。今回の対談が「監督」の事に全く触れてないのは少し残念。
最後に、今回の「対談」の作家はあくまでもオイシンなんですよっ!! タケチさんもアキラさんも実在の人とは少し違うのだ。「オイシン」が投影された現実と空想の間の宙ぶらりんな人物でしかない。ってこと分かってた? だから実在のふたりに敬意を払って、もっともっと面白いお話に仕上げなさいっ!!(※ 3)
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等々と偉そうなことを書いてますが、おチェケ丸は「理解できないポイント」があると「監督はこの部分を理解してもらおうとは然して思ってない」等と、あっという間に切り捨ててしまうので、この辺は反省せねばなと思っております。
※ 1 :ネタバレ堪忍、でもつまらんオチだから書いてもいいよね。
※ 2 :又は作家の力量によっては、作家自身が意図しない方向に創作物が向いてしまうってこともあると思うけんど。
※ 3 :「対談」の場合は、それをまとめる人がもっと司会の役を果たさねばならんと思うぞよ。参加者から面白い話が飛び出すように効果的なネタをビシバシ振り込んでいくのだ。難しいんぢゃよ。
(おチェケ丸)
師範代:馬場三蔵の講評
大島渚は『愛と希望の街』『白昼の通り魔』『帰って来たヨッパライ』『愛のコリーダ』『愛の亡霊』『戦場のメリークリスマス』くらいしか見ておらぬ。見る機会はあったのだが、かつて拙者、(一見)非政治的エンターテインメントを至上の映画とするドグマに捕らわれており、おまけに『愛のコリーダ』がフランスで大ウケなどと聞くと根っからのフランス嫌いの血が災いしてついつい避けていたのである。「朝まで生テレヴィ」でぎゃあぎゃあ騒ぐ大島渚の姿を見たりもしてアンチ渚傾向は強まる一方であった。
その後、拙者も齢を重ねて特定の映画を、見ずして毛嫌いする態度は改めたのだが、いくつかの作品で「痛い目にあった」記憶が残り、『御法度』の宣伝ではニュー新撰組ユニフォームに身を固めた大島渚が「キミは人を斬ったことがあるか?」などとよけいなお世話な質問を発するに至り、どうせつまらんやろな、と少々色眼鏡を持って『御法度』に臨んだのである。
結果は…。きわめてオーソドックスに見える演出であり、撮影・美術・音楽は高品質を保ち、また個々の俳優がかつてなく素晴らしい演技を見せる等、上々の作品に仕上がっており、これまで抱いていた大島渚のイメージを、大きく修正させるものであった。
特に驚いたのは、字幕の使用である。トミーズ雅のエピソードでの字幕の効果は、まさしく戦前に完成され、やがてトーキーが駆逐した無声映画のテクニークであり、かつて松竹ヌーヴェル・ヴァーグの旗手として既存の映画技法にアンチをなげかけた大島渚が、戦前のチャンバラ映画を擁護するかのごとく字幕を取り入れたのが、なんか痛快。
まあ、戦前の無声映画なんちゅうのはよっぽどの物好きを除いて、若い人は見ないワケで、いや、中年もきっと見ていないはずで、たまに文化博物館で無声映画が上映されるが、観客は往時を懐かしんで「あぁ、アラカンやぁ!」と嘆声の声をつい発してしまうご老体か、物好きな若者しかいないので、字幕の多用は大半の観客にとって、違和感を覚えるモノであろう。
懐古趣味と見られる危険もあるが、字幕、これ、実はアヴァンギャルドなのではないか? と思うのである。所謂斬新な映像っちゅうたかて、例えば若手監督お得意の MTV 風にしたかて、簡単に消費されて尽くしてしまうのである。岩井俊二とか。
思いっきり古風な字幕という技法を使うことによってスカッと観客に違和感を覚えさせよう、というような意図が、大島渚にはあったのではないかいな? 最も古い技法が逆に新しい、老人力がメキメキ着いてきた大島渚にはピッタリの前衛なのではないかいな、と思えるのである。
大島渚、さては天の邪鬼。フランスで人気の世界的監督がテレヴィで道化を演じるのも(マジかも知れんが)、天の邪鬼精神の発露なのではないかいな? ここに考え至って、にわかに親近感を覚えたのである。大島渚という人は色んなインタヴューを読んでも、こいつ、ホンマは何にも考えとらんのちゃうか? と思わせ、本心は決して語らぬ人に見受けられるのでどのような意図で字幕を使ったか? もまた、観客が勝手に想像すべきなのだが。
というワタクシの『御法度』の感想はおいといて、肝心のおいしん氏(うじ)の対談(?)であるが、前髪の惣三郎の動機に興味が向けられているが、小形剣之信殿が述べられているとおり、見るものによって如何様にも変化(へんげ)するモノなり。心の中を覗いてみれば、ポッカリ暗闇が口を開けていた、ってなもんで、色々想像するのは自由だが正解というモノはないし、議論するだけ時間のムダぢゃい。
どうやら貴公は、うぇぶでざいななるものを目指すというチョコざいなことをヌカしておるらしいが、さすれば大島渚が「何を描こうとしたか?」のみならず、「どのように描こうとしたか?」すなわち「どうデザインしたか?」にもっと目を向けるべきであるぜよ。おチェケ丸殿がおっしゃる「監督の事に触れる」とはそういうことだと心せよ。大島渚の過去の作品をある程度見ていないと語りづらいという面はあるだろうが、誰もマトモな論評を期待しておらんぜよ。バシバシ叩かれることを怖れず、おいしんの無知と偏見、誤解と独断に満ちた論評を期待する。その方が叩きがいがあるしさ。精進せよ。以上。
(馬場三蔵)