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Text by 小川顕太郎
2005年07月04日(Mon)

『ミリオンダラー・ベイビー』について
映画

 一日中雨。書くこともないので、『ミリオンダラー・ベイビー』の政治分析でもしてみやうかと思ふ。(またか! とか言はないで下さい。こつちも書くことがないんですから)

 すでにみなさん御承知のやうに、イーストウッドは政治的にはリバータリアンである。彼の作る映画はいつも優れたリバタリ映画となつてゐるのだが、『ミリオンダラー・ベイビー』も例外ではない。今回は、主人公マギー(ヒラリー・スワンク)の生き方が、端的にリバタリ的に描かれてゐる。ここで復習。リバータリアンとは? ーーーそれは簡単に言へば、自分のことは自分でやる、国家の世話にはならない、だから国家も俺たちのやる事に干渉するな! といふものである。マギーは正にリバタリ的で、自分の生き方は自分で決める(そのために猛烈に努力する・闘ふ)、といふ姿勢が強烈に一貫してをり、私なんぞはいたく感銘を受けてしまつたのであるが、さて。ここ日本においてはまだまだリバータリアンといふ言葉は馴染みが薄いやうで、「自分のことは自分でやる」とか言はれてもそんなん当たり前ちやうの? そんなん政治的主張になんの? てな反応が返つてきたりする。故に、この映画を通してリバータリアンの政治的相貌を露はにしてみやうと思ふ。

 まづ一番分かりやすいのがラスト。ネタばれになるのでまだ観てゐない人はここで読むのを止めて先に映画を観た方がよいと思ふが、ま、つまり、ね、あれする訳ぢやないですか。あれ。マギーは自裁する。自分の生き方を自分で決める、とは、自分の死に方も自分で決める、といふ事である。これぞリバタリ的。さらに、他人(国家や拳闘協会など含む)に頼つて生きる事を潔しとしない、といふのもリバタリ的である。で、なんでこれが政治的争点になるかといふと、もちろん、西洋社会=キリスト教社会においては、自殺は禁じられてゐるからである。映画の中でも、牧師ははつきりと自裁を否定してゐた。そこで敢へてかういふ結末を撮る、といふのは、なかなかに政治的争点になると思ふのだ。私は詳しいことは知らないけれど、この映画、結構問題になつたんぢやないのかなァ。だつて、堕胎は聖書で禁じた罪にあたるとして、牧師が堕胎医を射殺する社会だよ。キリスト教右派の連中は、この映画にカンカンだらう。もちろん、キリスト教右派の連中がブッシュ政権を支へてゐる。ここに鋭く! 政治的争点は露はになるのであつた。

 次に、マギーと彼女の家族の対比について。マギーの家族は、マギーと正反対の生き方をしてゐる。マギーが、自分で稼いだお金で母親らに家を買つてやると、「そんなことして、税務署にばれたら生活保護が打ち切られるぢやないか! 家なんかいらない、金だけくれればいいんだよ!」とマギーを怒鳴りつける。で、結局、名義はマギーにしたままで、その家に自分達は住むことにする。そして、マギーが廃人になれば、マギーの資産を自分達のものにしやうとするのだ。「お前の世話をしてやるから…」とか言つて。つまり、マギーの家族は、福祉にたかり、娘にたかる。他人にたかつて生きていく事しか考へてゐない。自分の力で人生を切り拓いていく、といふマギーの考へには、全く理解を示さず、「結局あんた、試合に負けたんぢやないか。何言つても、負けたらダメさ。みつともないッたらありゃしない。近所の笑ひ者だよ!」なんて叱りつけたりするのだ! …なんか書いてゐて、また沸々と怒りが湧いてきましたが、ま、ホワイトトラッシュには、かういつた連中が多いのでせう。イーストウッドは、明らかにこの手の人間を批判してゐる。そして、この手の人間を大量に産み出す政治体制にも。…つまり、リバータリアンは、アンチ福祉なのだ。他人の施しは受けない、自分のことは自分でやる。福祉なんていらない、その代はり税金も払はないぜ、といふのがリバータリアンの政治的主張なのである。だから、ここに左翼リベラル的な福祉国家政策とも激しく衝突するのであつた。

 かやうに、リバータリアンは右派とも左派とも衝突する。『右であれ左であれ、我が祖国』とは、ジョージ・オーウェルの著書の名前だが、さう、オーウェルはリバータリアンの源流のひとりなのである!!!

 てな事で、続きは明日に。

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